こんな質問が出来たら

昨日Comitia145に参加しました。昔の本が今更バズりまして・・・でお伝えした通り、突然忙しくなってしまいまして新刊にまともに取り組むことが出来ませんでした。当初「文脈とビール3」と題してエッセイを10本以上収録したものを出すつもりでしたが、諸々考慮して新刊を落とすことだけは避けようと苦肉の策として3本だけ収めたものを無料頒布しました。本日はそのうちの一編、「こんな質問ができたら」をここにご紹介します。

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こんな質問ができたら

素晴らしいものに触れた時、人は2種類の反応をする。「うわぁ、すごいなぁ」という素直で自然と感嘆の声が上がるものと、あまりの素晴らしさに体が固まってしまい何も出来なくなるものだ。対象物の素晴らしさを後者の方がよく理解しているだろう。いや、正確に言えばその素晴らしさを「自分とは全く関係のない世界に存在する、客観的なもの」として見ているのではなく「自分のいる世界にあって、その世界を今正に更新しようとしているもの」として認識されているに違いない。ジブンゴトとしてその対象物と関わりを持とうとしているところが大きく、そして決定的に違うところだと思う。

さて、その素晴らしいものをここでは「作品」と呼ぶことにする。これはいわゆる芸術一般のそれも含むけれども、手作りの料理でも手編みのマフラーでも何でも良い。ボカロの曲でもtiktok動画でも構わない。他者が生み出した何かでありさえすれば成り立つと思う。

何の世界でもそうだけれども、天才がいる。そして、その天才は圧倒的な作品を生み出し、鑑賞者に快や美、驚きや新たな視点を与えるけれども、同業者にとっては羨望だけではなく嫉妬も生み出すある種厄介な存在でもある。モーツァルトに対するサリエリであったり、そういった例は枚挙に暇がない。心の底から悔しいけれども、いかに努力しようともその高みには届かないということが明らかだ。遥か彼方にすでにいて、その背中を追いかけるしか出来ず、一生そこに手が届かないと思い知らされた時、人はどうするのだろうか。

嫉妬が憎悪へと変化し、その作家を殺してしまうこともあるだろう。自分の才能の無さに絶望して自らを殺めることもあるだろう。小説家や画家など、作品を通して何かしらの表現をする人間にとって作品には自分の生きざまが多かれ少なかれ込められているけれども、それを行う必要があると思えなくなったとしたら生きる意味を失ってしまってもおかしくはない。死を選ぶまではせずとも、筆を折る、以後一切の作品制作をやめるという選択をすることも往々にしてあると思う。死なずに生まれ変わる手段としてやめることもまた一つの生き方だろう。

実際やめてしまった方々は過去にいくらでもいる。そういう人たちは潮流から外れてしまっているのでもうその文脈でスポットライトを浴びることはない。だから、取材を受けて記述されることもなく、記録が残らないがために世間からは忘れ去られてしまいがちだ。今を輝くスターを賞賛するのは結構なことだけれども、光と影というような表裏一体の関係として「筆を折った人の言葉」に最近強い関心がある。

ビール醸造に携わる方々にいつか質問してみたいことがある。「ブルワーをやめたくなるほどすごいビールを飲んだことがありますか?」というものだ。まあ、正直に語ってくれるとも限らないのでなかなか難しいとは思うけれども、大事な問いではないかと思う。

「そんなものは無い」と嘘偽りなく本気で言い切れるブルワーがいるのなら、その人の作品に飲む価値は無いだろう。経験があまりに少なすぎるか、本気でバカなのだと一蹴して良い。まぁ、これは言いすぎかもしれないが、少なくとも人生をかけたジブンゴトとして醸造に取り組んでいない証拠であり、単に作業として醸造に関わっているのならばその作品の向上は見込めない。自分自身のアウトプットに関心がないということなのだから期待しても一切無駄だということになるので私が追いかけて飲むことはないだろう。

質問したことがないから想像でしかないけれど、日々ビールが生まれているのだからブルワーはきっと毎度凹みながら醸しているはずだ。ビールとは苦悩の結果であるに違いない。作れば作るほどやめたくなるにもかかわらず、それでも続けていくモチベーションはどこにあるのか。

「ブルワーをやめたくなるほどすごいビールを飲んだことがありますか?」という質問に続いて、「やめずに続けているのはなぜですか?」とも聞いてみたい。これについても正直に答えてくれそうにないけれど。

推しのブルワリーのビールを定期的に飲むということは、作品の質的向上を断続的に観測することでもある。自分自身の味覚の変化もあるし、興味の対象もまた変化するので定点観測しているつもりでも実際にはそうでないことも多々あるだろうが、それでも何かしらの変化が感じられて飲み手の中に生まれるものがある。そこにブルワーの意志や魂のようなものがあるのだと思う。質問もしづらいし、答えを聞くこともないからこそ、液体に滲み出ているそれを感じ取れる自分でいたい。そうつくづく思う。