日本盤CDのライナーノーツと経験の多義性について

パソコンで事務作業をしている時や書き物をしている最中、なんとなく音楽をかけています。うるさくもなく、かといって無音でもない状況を作り出すためにとりあえずかけているだけです。意識がそちらに持っていかれない程度の緩い感じ。ジャンルは特に何と決めているわけでもなく、ただ適当にyoutubeのミックスリストなどがバックグラウンドでなんとなく流れているのだけれども、ふと「あぁ、そうか、昔私が思っていた聴き方とは全く違ってきているのだなぁ」と気が付いたのです。

バックグラウンドで再生しているとアルバムの画像や曲名すら認識されない。ただただ音が流れているだけです。ふと「あ、いいな、これ」と思ったとしてもそれはほんの一瞬で、即購入してダウンロードするとか、amazonでCDを注文しようということにはほぼ100%ならない。優先すべき作業は別にあるし、いつでもストリーミング再生出来るのだからまた聴けばいいか、くらいにしか思わないのです。曲名とアーティスト名だけはチェックするけれども忘れがちだ。歳のせいなのかもしれないけれど、一回で憶えてやろうという音楽に対する気合みたいなものが10代、20代の頃と比べて少なくなっているような気がしてならない。肩の力が抜けただけなのかもしれないけれど。

思えばCDを買わなくなって久しい。10代後半くらいは気になるものはガンガン買っていました。最盛期は2000枚くらいは持っていたのではないだろうか。引っ越しをした時に相当処分したのですが、思い出深いものはやっぱり捨てられずに今の家に持ってきました。結局まだ数百枚は残っていて、時折何かを懐かしむように聴いてみたりします。

たとえば、中古で買ったDream TheaterのTrain Of Thought。Stream of Consciousnessという曲がとにかく好きで何千回も聴いています。

これは輸入盤ではなくて日本盤です。ジャケットの間に別添えでライナーノーツがついています。よく考えてみたら、ライナーノーツというものは非常に面白い存在だ。

ジャケットには制作したバンドのメンバーやエンジニアが列挙され、歌詞が載っています。録音したスタジオや使用した機材などが載っていることもありますね。しかし、製作者側から「このCDで表現したかったのはこういうことです」というような説明書きは基本的に無い。それを表現するために音や演奏という手法を選んでいるのだし、聴けば分かる。だから、わざわざ本人が言葉で説明するというのは野暮だろう。そのため写真が豊富に含まれていたとしても輸入盤CDのジャケットの情報量は案外多くない。

その点、日本盤についているライナーノーツは非常に面白い。鑑賞すべき作品に製作者の来歴などを含めた「他者視点の解説」が初めから添付されているのです。「他者からの解釈」と言った方が適切な場合もありますね。もちろんその書き手は製作者と個人的な交友はあったりするだろうけれど、製作者や演者自身ではなく、あくまでも他人。制作物に第三者視点がセットになって販売されているというのが普通だというのはよく考えたら面白いと私は感じるのです。Masa Itoこと伊藤政則氏にお世話になった同世代の方は多いのではないだろうか。

対象をありのまま事前情報無く鑑賞することも大事です。大人の事情によるポジショントークってこともありますからね。他人の解釈で鑑賞にバイアスがかかる可能性も否定できない。それは認めつつも、一方でライナーノーツにも一定の意義はあると思います。他者から新しい視点を得て深いところまで手が届いたりもするのは自身の経験から思うところです。白黒はっきり出来る話ではないですが、おせっかいとサービス精神というのは紙一重だということですかね。やたら暑苦しいけど、私は結構好きですよ、Masa Ito独特の文体は。

さて、ストリーミング再生でぼんやり聴いていると、どういう文脈のものなのか?とか、どういう切り口で評価すると面白いのか?などという情報は一切入ってきません。それが無いと自分自身でその音像と心に生まれた何かしらの快を強く紐付けて記憶に刻みつけるという作業が発生するわけですが、これがなかなかしんどいのです。圧倒的な力で打ちのめされた場合以外、よっぽど興味が沸かなければ主体的にコミットしようとは思いません。他にも鑑賞すべきものはいくらでもあるのだから。そして、曲は途切れなくブラウザを閉じるまで延々と流れ続け、知らない曲が知らないまま始まって終わるという繰り返し。もはや聴いたのか聴いてないのかも分からない。

ライナーノーツ職人から与えられた視点によって自身の感覚とは異なる聴き方や注目すべきポイントが新たに生まれ、経験が複雑になる。または、提案された視点に違和感を覚えて別の聴き方を考えるきっかけとしても機能することだろう。日本盤CDにあってストリーミング再生に無いのは「間接的に誰かと一緒に聴いてあーだこーだ言っている感覚」と「それによって深まる経験の多義性」ではないかと睨んでいるのです。

たぶんお酒も似たようなものだと思う。ググって出てきた流行りのものを幾つかなんとなく飲んでも、飲み放題メニューに載っているものを片っ端から試してみても、普段全く聞かないEDMのプレイリストを再生したようなもので「ふうん」にしかならないのではないだろうか。否定も肯定もなく、話題にも上がらずにただ消費されていくのは少し寂しいと私は思う。

ビール祭りに友人たちと行くと本当に楽しい。傍から見ればわいわいビールを飲んで旨いとか不味いとか言い合っているだけなのだけれども、それは同じ場で同じビールを飲みながら自分の感覚と他人の感覚を同時に受け取り、すり合わせるから楽しいのだろう。自分の味覚的経験が一つ上の次元に昇華されるというか、自分の感覚が少しだけ抽象化、一般化して他者と何かを共有出来たような気がするのは私の勘違いだろうか。酒飲みがビール祭りに行く理由をそれっぽく偉そうに言っているだけかもしれないが、、、まぁ、それもあながち間違いではない気もする。

ストリーミング時代を迎え、視聴回数や「いいね!」の数、評価サイトのスコアでは測れない意味の強度と文脈の複雑さを私たちは私たちの中にどうやって作れば良いのだろう。

The Veil BrewingのThe Weaponを飲みながら、ぼんやりとそんなことを思った。1人で飲んでも仕方ないよね、これは。これが何なのかについて会話しながら飲むべきなんじゃないだろうか。