【雑記】それはまるで「さようなら、ギャングたち」のようで

数ヶ月前、貴重な体験をしました。それは単にレアなものを飲めたというだけでなく、私自身の認識に大きな影響を与えるものとなりました。液体自体が概念を壊そうとしている。いや、飲み手に対して尋問しているようにも見えました。

The Veil Brewing Never Forever³

Never forever(cubic) unbelievable stuff. #craftbeer #theveilbrewing

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The Veil Brewing Never Never Gonnagetit Gonnagetit

Never never gonna get it gonna get it. Welch?? Lol. #theveilbrewing

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9月に行われるMikkeller Beer Celebration Tokyoにも出店するアメリカのブルワリー・The Veil Brewingの2点です。1つ目がパッションフルーツをスタンダードの3倍入れたゴーゼ、2つ目がラズベリー、ボイセンベリー、ブラックベリーをこれでもかと入れたゴーゼです。どちらにもこのような但し書きがあります。

PLEASE NOTE THAT THERE IS A SIGNIFICANT AMOUNT OF FRUIT IN THIS BEER AND THAT IT IS IMPERATIVE THAT THESE CANS REMAIN COLD AT ALL TIMES.
注意!このビールには尋常ではない量のフルーツが入っていて絶対に常時冷やしてください。

直接的には書いていませんが、聞いたところによると温まると腐敗してくるのだそうで。フルーツを入れすぎて腐敗するかもしれないビール、なのです。最大級の褒め言葉として「バカだねぇ」と言いたいです。

さて、味わいについてですが、どちらもブラインドで飲んだらジュースだと勘違いすると思います。それほどフルーツが主張していて、やり過ぎていると断言して良いだろう。Never Never Gonnagetit Gonnagetitに至っては一緒に飲んだ仲間うちで「うん、これはウェルチだな」という満場一致の見解を得ました(笑)ビールという言葉で認識しているフィールドで判断しようとするととても不安になる味わいだ。・・・もはやビールではない。

その帰り際、てくてく歩きながらあの余韻を噛み締めつつたくさんのことを考えました。

ビールを醸造し、そこに大量のフルーツを合わせることで出来上がった液体。それはたとえばヴァイツェンに桃を入れることと違いは無い。けれども、主従関係が逆転するほどのフルーツが全面に押し出され、ジュースに思えるけれどどこかお酒としての形が残っている。もしかしてこれはビールではなくて、カクテルや酎ハイ的な何かなのではないか?などなど頭の中が混乱する・・・

以前、とあるブルワーと飲んでいた時にこんな話をしたことを思い出します。

New England Style IPAが流行っていて、苦くなくてマンゴーネクターっぽい味わいのビールが人気だよね。であれば、マンゴーネクターにホップのウォッカ入れてカーボネーションさせたほうが安いし、大量に安定した味わいが出せるよね?

まぁ、そうだけれど、もうそれはビールじゃない。

でも、結果的に美味しいわけで、求める味わいになるのだからその方が合理的で正しいんじゃないだろうか?

うーん・・・

この話はとても大事じゃないだろうか、と最近思っています。ビールとは何か?と考えた場合、麦で作られた醸造酒と定義されるわけですが、飲み手には経験から想起される無意識のイメージが出来上がっている。たとえば7:3の泡やキンキンに冷えたグラスなどは分かりやすいアイコンでしょう。しかし、クラフトビールにおいてはそれ自体がその概念や定義をぶち壊そうとする何かがあるように思えて仕方ない。ビールがビール自身を壊す、それがクラフト的メンタリティというかアプローチなのではなかろうか。言い換えれば、概念の拡張やより高次元への昇華なのではないかと思う。たとえそれが遊びや思いつきで始まっていたとしても。

The Veil Brewingはこれらをビールとして認識しリリースしましたが、それを受け取った私は初め受け止めきれなくて戸惑い、不安になりました。「これはビール、、、なのか?」と。麦を醸造し、それを果物と合わせるメソッドを突き詰めた結果、私の中にあるビールの概念を飛び越えてしまったから不安になったのだと気が付いた瞬間、急にふぅっと力が抜けたのでした。クラフトビールという現象の拡大するスピードに自身がついて行けなくなっただけの話で、隣接領域との境目ギリギリまで迫っていてどちらなのか分からなくなる場所まで来たことをむしろ喜ぶべきなのではないかとすら思うわけです。

高橋源一郎の作品に「さようなら、ギャングたち」という文章群がある。敢えて小説とは言わない。何だか、こう、あの不安感に似ているし、読後にやってくる清らかな心持ちともどことなく似ているような気がするのだ。これらのビールとの邂逅は旨い不味いよりももっと先の、批評空間へと繋がる。根拠はないけれど、そんな気がしてならない。

そう、それはまるで「さようなら、ギャングたち」のようでした。