日本らしさについて 「クラフトビールの諸相」より抜粋

日本でクラフトビールなるものが認知され、段々と広まってきました。それに伴って、原料の国産化やジャパニーズスタイルの確立について触れる方もいらっしゃいます。この点について私見を述べておきたいと思います。先日リリースした「クラフトビールの諸相」から該当する部分を抜粋します。

(クラフトビールに関して)歴史研究によって明らかにされることはたくさんあると思います。外国からたくさん影響を受けているはずで、それを整理すると外国というものに対置される「日本らしさ」というキーワードが浮かび上がってくることでしょう。外国のものがそのまま受容されているのではなく、多少なりともローカライズされていますから、時と共にその様態に「日本らしさ」が現れてくるはずです。これを考えることは文化の質的な側面を研究することであると同時に、現在の私たち自身を知ることにも繋がってくるはずです。

 

このように考えるのにはきっかけがありました。「ジャパニーズスタイルビール」に関する言説が時折見られるようになったからです。ビアスタイルガイドラインに新たに名を連ねるような「ジャパニーズスタイルビール」を作ることが日本におけるクラフトビールシーンに求められているという趣旨の記事や発言が最近特に見受けられます。こういった発言には「日本人によって日本オリジナルのビアスタイルは確立可能である」ということが自明であるかのような印象を受けるのですが、果たしてそうでしょうか。世界に共時的に流行を見せるクラフトビールにおいて一国の中で全てが完結するはずもありません。外国からの影響が多分にあります。ですから、「日本人によって日本オリジナルのビアスタイルは確立可能である」のではなくて「日本と世界のインタラクションによって日本オリジナルのビアスタイルは確立可能である」と考えるのが現実的であり、妥当な線だと思います。

 

日本人がアメリカという外国のビールを飲んだ時、自身の文化的背景である日本を下敷きにしてその液体に込められた「アメリカ的なるもの」を解釈します。同様に、アメリカ人が日本という外国のビールを飲んだ時に自身の文化様式に照らして考えるわけで、その様式に無いアプローチのものは斬新に感じられ強いインパクトを与えます。そういう人が多ければたとえば日本のクラフトビールのどれかがジャパニーズスタイルとしてビアスタイルを確立し、世界に広く知られるかもしれない。だから、日本人が日本らしさを自称するのには無理があって、日本とは分離されている他者からそう認識されているという事実が先に出来上がらないといけません。ビアスタイルと地域、場所を結びつける場合は必ず他の文化圏からの価値判断によって為されるのです。

 

日本と異なる文化を持つ他者との関係、もっと言えば「差異」によって規定され名前がつくわけです。日本語という特殊な言語を使用し、極東という辺鄙な場所で暮らしている我々日本人の文化的独自性はすでに世界が認めるところであります。ですから、無理に作ろうとしないでも、日本人の飲み手がそれぞれ好き勝手に飲んでいればいずれ外国の方がその差異を発見して命名してくれるのではないかと思うに至ります。すでにミッケラーのToriaezuがその一端を示していて、それがもっと広がってくれれば良いと思います。

 

ただし、言語の問題はクリアした方が良いでしょう。分かってもらう必要があるならば相手に全てを委ねるのではなく、分かってもらえるようこちら側からもアプローチすべきです。日本語以外の言語、少なくとも英語で世界に向けて発信をしないといけません。世界的に見て日本語は通じる国の少ない言語ですから、少数派の日本人である私たちが世界に寄り添って世界言語である英語で自分たちの考えをビールそれ自体とともに示していくべきです。その結果、「ドイツでもベルギーでもアメリカでもなく、これはジャパニーズとしか言いようのない新しいものだなぁ」と思ってもらえたら成功です。要するに、クラフトビールにおいて日本を規定するのは実は日本以外なのではないかと私は考えるわけなのです。

 

「日本らしさ」とは意図的に作り上げるものというよりは「出来上がってしまうもの」、「気がついたら出来上がっていたもの」でしょうから、無理に日本人が日本を決めてかかる必要はありません。日本人同士で議論することがそもそも建設的かどうか一度立ち止まって考えてみても良いのではないでしょうか。

色々なご意見があるかと思いますが、私はこう思います。大事なことだと思いますから多くの方と議論していきたいです。皆様の意見を是非お聞かせください。

「クラフトビールの諸相」では他にも「場」に関する議論をしています。ご興味ある方はCRAFT DRINKSの本屋で扱っておりますのでご覧くださいませ。