C97新刊「文脈とビール」 +チラ見せ

先日お伝えした通りですが、12月30日、夏に続きコミックマーケット97、いわゆる冬コミに参加することになりました。Amazonで手に入るようになりましたが、前回発表した「クラフトビールの今とこれからを真面目に考える本」も再販致します。今回発表する「文脈とビール」共々、どうぞよろしくお願い致します。3日目の南ネ-11bにてお待ち申し上げております。

さて、以前新刊のご紹介をした際、このように書きました。

さて、前回書いた「クラフトビールの今とこれからを真面目に考える本 」では理論と言いますか、「人間とビールと社会の関わり」のような視点で捉えた事柄を文章にしたものです。統計と情緒、定義の必要性、法律などをCRAFT DRINKSなりに論じたわけですが、概ね大きな枠組みの話が中心で個別のブルワリーやビールを中心に据えた話はしておりませんでした。

今回の「文脈とビール」は個別のビールと、その中にCRAFT DRINKSが感じ取った美や感動、不安、概念の拡張について綴っています。あくまでもCRAFT DRINKSのフィルターを通して切り取られた感覚や概念なのでこれが一般的なものとは言い難いです。各人の経験や流れ、それこそ文脈によって捉え方や解釈は著しく異なると思います。そのため、この本には正解だとか公理のようなものはありません。あるのは一生懸命本気で飲んできた記録です。

取り上げているビールには極めて希少なものも含まれています。たとえば、博石館のスーパービンテージなどブルワリー自体がもう既に無いのでその液体が日本のどこかに残っているのかすら分かりません。今後飲めるのか、それは運とか縁があるかどうかにかかっています。私はたまたま出会うことができただけの話です。けれども、他のものについては出会えていない。他の誰かも運や縁があって私の知らない何かに出会っています。そういう繰り返しが世界中で続いていて、出会いの記録をより多くの方に気軽に発信してもらえるとシーンはより豊かになるのではないかと思っています。それは巡り巡ってブルワリーへのフィードバックにも繋がるし、コミュニティの促進にもなるのではないかと考えているのです。

どちらかというとマクロ的な視点の前作に対して新刊「文脈とビール」はミクロな感じと言えば良いでしょうか。この2つの視点が揃ってやっと一つ区切りが作れたのではないかと思うに至ります。ミクロの方はまだまだ記録すべきものがありますし、これからどんどん文脈を形成するマスターピースが生まれてくるはずなので今後も何らかの形で続けていこうと考えています。

新刊を執筆する中で思ったことをあとがきに書きました。飲んで考えさせられたビールはたくさんあるのですが、そもそもビールは農産物で出来ていて常に同じ品質でもないし、同じ状態ではありません。(そのあたりのことは新刊の中で取り上げたOrvalのページで読んで頂ければと思います。)「その時、その瞬間を捉えたという個人的事実の記録」はすごく大事なのではないかと思うのです。なぜならば、鑑賞者である「自分」も常に同じであるわけではないから。当たり前と言えば当たり前なのですが、案外忘れがちではないかと思うのです。デジタルな世界だからこそ「その時、その瞬間を捉えたという個人的事実の記録」というアナログな試行の積み重ねは大事なんじゃないかと考えるようになりました。これをより多くの人が自発的に行うと素敵な世界になるんじゃないか、とちょっとロマンチックに思ったりもするのです。それを一言で言えば”聞こえる声の大きさで「ごちそうさま」をみんなで言おう。”になるんじゃないだろうか、なんて思った。

そんなあとがきの一部をチラ見せ。長くて恐縮ですが、お目通し頂ければ幸いです。

あとがき ビールと批評と声

<略>

人間は誰ひとりとして同じではなく、そしてその人間の想像力に限りがないからビールは多種多様で複雑で、そして混沌としているのではないかと思う。なぜビールを飲むのだろうとぼんやり考えてみる。分からない。分からないから分かるまで飲み続けていくのだろう。そして、その瞬間ごとに感じた絶対値のことはこれからも心に留めておこうと思う。飲んだお酒を語ることはその時の自分による自分の記録でもあるからだ。

前回書いた本のあとがきでは誰かと繋がるビールというようなことを書いたけれども、今回は内側に目線を向けてみたわけなのです。私というフィルターで捉えたビールそれぞれとそこに見えた美や意義が本当にあるのかは分からない。たまたま私がピンとくる気分と体調の時にたまたま出逢ったもののことを綴っているだけなのだから、違う見解もきっとたくさんあるだろう。それは否めない。けれども、全ての人にそういうことがあるだろうから巡り合った一杯とそこで感じた何かをたまには発信してもらえたらと切に願います。

<中略>

個人や有志のグループが発信しているものの方がリアルであり、即時性や意見、主張があってすでにその価値は高い。テクノロジーの進化、普及により21世紀は個人の時代となり、1億総発信者となった。そのため、既存メディアに担がれた有識者とされる人の他に、一般人によるリアルな発信が注目を集めるようになってきていることは疑うべくもない。ジャーナリズムに絡めて言うと、飲むという行為のインプットを飲み手が行い、同じ人間が感想や解釈を発信するというアウトプットも行っているわけで、そこに専門性と批評精神があれば理想的な形になるような気がしてならないのだ。各種「書いて発表するという行為」のハードルが異常に下がった今、ビアジャーナリズムは専門性と批評的精神の2点のみで判断されるのかもしれないけれども、1994年に始まったばかりの日本のビールシーンなのだからまずは感想や思いつきを気軽に出せば良いと思う。

「あそこで飲んだアレ、旨かった。ごちそうさまでした」

このフレーズで世の中溢れたら、幸せは増えると大真面目に考えているのだ。方法は何でも構わない、聞こえる声の大きさで「ごちそうさま」をみんなで言おう。