エモいストーリーにおなか一杯の件

少々前のことです。

クラフトビールのことで相談に乗って欲しいと連絡を受け、とある方に会いました。ある地方の産品を使用したクラフトビールの販売をしているそうで、そのビールについてのご相談でした。

ご相談の内容は申し上げられませんが、その原料はその地方にあるブルワリーに持ち込まれ、ビールに使われるとのことでした。「そのブルワリーでなくてはならない理由は何ですか?」と聞くと、「県内で作るというストーリーが必要だからです」と先方は言うのです。そして、「そういうストーリーがあった方が売れると思います」とも。

詳細は拙著「クラフトビールという記号の戯れ」をご一読頂きたいのですが、クラフトビールの記号化はここまで進んでいるのか、と落胆したのでした。美味しいビールを作るという話が一言も出て来ず、ビールというものはもはや美味しさは二の次のだと思われているようです。

私が「地元のヘタなブルワリーと地域外だけれども腕の良いブルワリー、醸造をお願いするならどちらが良いと思いますか?」と尋ねても先方はしばらく考えたまま、特に明確な返答は得られませんでした。「私は後者の方が良いと思います。いくらエモいストーリーを語っても肝心のビールがショボくては意味がありません。」とこちらからは答えたのですが。

結局のところ、地元の原料、地元のブルワリーなど、「地元」をキーワードにして恣意的にストーリーを作り上げることに躍起になっているのではないでしょうか。そもそもビールの質、つまり美味しいということそのものに目が向いておらず、地元縛りで色々と要素を積み重ねていこうとしています。そうすることで消費者、この場合は東京をはじめとする都会の消費者に認知されると思っていることが伝わって来るのでした。「こういうストーリーが大好物ですよね?だったら、そういうストーリーを作って語ります。」と無意識に考えていることがよく分かるのです。

これはこの方だけが悪いわけではありません。シーン全体がこういう傾向にあると私は思います。製造側も消費者とある種の共犯関係にあって、ストーリーというキーワードの元に「せっかくならストーリーが欲しい消費者」と「求められているならそれを提供して売りたい事業者」という関係が成立してしまっているのではないかと考えられるのです。エモいストーリーを重ね、数え役満になったものが散見される今、私個人としてはもうすでにそういう大盛りのこってりしたストーリーにおなか一杯で、胸焼けがしています。もういいんじゃないですかね、そういうものは、なんて個人的には思っているのでした。

では、こうした現状を打破するためにどうしたら良いのか。拙著「クラフトビール入門 飲みながら考えるビール業界と社会」にも少々書きましたが、その地域でのリアルな対面の関係を回復していかないといけないと私は考えています。そもそもストーリーとナラティブ、ディスクールも違うし、語る主体と語られる内容の形式などについてもちゃんと考えたいですよね。また、乾杯を通じた身体性や仲間であるという感覚を取り戻すことも大事なんじゃないかとも思います。

このことについてはどこかでまた書きたいと思います。