記憶と作られたノスタルジーと

最近ビールを飲んでいて改めて思ったことがあります。記憶について、です。以前「文脈とビール2」で発表した文章がちょうどそういうテーマなのでご紹介したいと思います。作られたノスタルジーとその消費はどういう関係にあるのだろうか。きっと世代によって大分感覚が異なることでしょう。記憶に関する差異、そして作られたノスタルジーの同一性について語り合ってみたいと思う今日このごろです。

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不思議なもので、お酒を全く飲まない両親の元に生まれた私が酒屋になって日々飲んだくれている。どうしてこうなったのか。我が事ながら全く理解出来ないが、事実そうなのだから仕方ない。そういうものとして受け入れるしかないのだろう。

年齢の近い友人たちに「お父さんはお酒を飲んでいましたか?」と尋ねると「ああ、そう言えばナイター見ながらビール飲んでたな」とか言うのです。私の家にそういう文化は無かったけれども、テレビでナイターを見ていた記憶があります。巨人阪神戦を見ながら、晩御飯にカレーを食べていた記憶が蘇る。あの当時住んでいた家の間取り、置いてあったテレビやタンスがありありと思い出される。妹と遊びでタンスにたくさんシールを貼って怒られたり。上手に剥がれなくてタンスの引き出しに白い痕が残っていたなぁ。

子供心に「ジュリアナ東京というものがあるらしい」とか、「24時間働けますか」と煽る栄養ドリンクがあることはテレビを通じて知っていたけれど、私はバブルの頃小さくてその当時の熱狂を知らない世代です。時は週刊少年ジャンプ全盛期。ドラゴンボールにどっぷりハマり、おやつにビックリマンチョコを食べ、同級生たちとファミコンに熱狂していました。ごく普通の、昭和の子供らしい子供であったと思います。振り返ってみてもあまりに小さかったので昭和らしい昭和が何なのかいまいちピンとこないというのが正直なところです。

2021年、アサヒビールがマルエフを復活させました。それまで吹田工場でごく少量だけ生産され、東京のランチョンなどごく一部のお店だけで提供されていた通称マルエフが一般発売されることになったのです。樽生だけ流通していたのでいわゆるラベルがありませんでした。どういうパッケージになるのだろうと思っていたら、レトロなフォントのカタカナが使われ、ロゴもどことなく古びた感じです。派手さはなく、どこか穏やかでマットな質感。

テレビコマーシャルには今をときめく新垣結衣が起用され、竹内まりやの「元気を出して」が流れる中「おつかれ生です」というキャッチフレーズが呟かれる。大衆居酒屋でカウンター越しに大将からキンキンに冷えたビールを受け取る画は印象的でした。フォントもロゴも、そしてその周りの演出の仕方も全て「昭和レトロ」なニュアンスを帯びています。1986年、つまり昭和61年発売のマルエフですからそういうストーリーをまとわせてアピールしたいのでしょう。ああ、そうそう、昭和ってこうだったなぁなんて思ったりもする。

しかし、よくよく考えてみると、妙なのです。私の両親はお酒を飲まず、子供の頃に居酒屋に連れて行かれたことは一度もない。暖簾の向こうがどうなっているのか見たことがないのです。志村けんのコントだとか、月9のドラマなどで見た風景が昭和の体験として意識に刻み込まれていて、それが私自身が生々しい昭和を受け止めて作り上げたイメージなのか、商業的にブラウン管の中に生成された擬似イメージなのかもはや分からなくなっています。あのCMを見て「ああ、そうそう、昭和ってこうだったなぁ」と感じてしまう私は何を覚えていて、何を忘れてしまったのだろう。

革新と保守という概念を並べて考えた時、新しいもの、つまり未知なるものへの肯定的な感覚が前者の革新にはあり、そこには挑戦だとか夢、希望のようなイメージが付随します。対して保守とは過去良かったものを大事にする思想で、キーワードとして記憶が挙げられるのだと思う。今60代、もしくはそれ以上の方にはリアルな昭和の記憶があって、マルエフが醸し出す昭和的なるものとリンクするのでしょうが、私よりも下の世代にはもうそれは実感のあるものではない。テレビの「あの人は今」のような、かつて存在したらしい何かを伝えるものに過ぎない。包み隠さず言えば「へぇ、そうだったんですか」という感想しか出てこないのだ。

キリンのスプリングバレーにしても似たようなもので、和服姿の吉永小百合を登場させ、「ビールがもう一度始まる。」と語る。穿った見方なのかもしれないが、もう一度始まるのはガンガン消費されて勢いのあった昭和のビールなのだろう。そして、そこにちらつくのは素晴らしかった昔の記憶です。こういう手法で情緒的に訴えかけて響くのは一定以上の年齢の方々であり、昭和の酒場、昭和のお酒をリアルタイムで知らない世代は何を思えば良いのだろう。大正ロマンならぬ、昭和ロマンを勝手に醸成すれば良いのだろうか。私はちょっと困ってしまうのだ。後になって意識の中に人工的に作られたノスタルジックな昭和という名の虚構をどう受け止めて良いのか分からない。マルエフが昭和当時の味わいであったとしてもそれを全く知らない私にとっては21世紀の味わいで、それが紛れもない真実なのだから。

上の世代、下の世代とビール片手にちゃんと話をしておかないとマズいと最近強く思います。90年代から飲んでいる先輩方にその当時の地ビールがどうだったのか伺い、オーラル・ヒストリーとして残しておく必要がある。また、飲み始めた時すでにHazy IPAがあってIPAが苦いものだと思っていない世代も出てきたそうですから、そのクラフトビールのファーストコンタクトに関する証言も取っておきたいところ。2010年代初頭にアメリカ・カリフォルニアからやってきたウエストコーストIPAに心酔してクラフトビールにのめり込んだ私たち世代は彼ら両方の世代と語り合っておく必要があると思う。実感を伴った記憶がまだあるうちに聞きたいし、実感を伴った記憶がノスタルジーにならないうちに話しておきたい。

世の中、きれいで優しい虚構で満ちている。マルエフを飲んで私は汚くても構わないから本当のことを知りたいと思った。