
「せっかくだから」の遠さ
とある飲み屋での事です。「せっかくだからクラフトビール飲もうか」という声が耳に入りました。
「せっかくだからクラフトビール飲もうか」、か。なるほど。
様々な理由がこの言葉の裏側にあるのだろうけれど、とりあえずクラフトビールなるものはその人にとって日常からかなり遠くにあるのだろう。個人的にはなんだか寂しいのだけれども、これが現実であろうと思うわけです。この距離を埋めるにはやはりビール祭りなのだろうか。ハレでの体験を入り口にして始めるのが自然なように思います。
そう言えば、多少の条件付きではあるものの、今年に入ってから各種催事も解禁となり、春から毎週どこかしらでビール祭りやイベントが開催されています。私もちょこちょこ行くのですが、どこもたくさんの方がいらしています。長らくコロナで抑えつけられていた気持ちを解放するという意味でも賑やかなのは良いことです。
その一方で別のことも思います。クラフトビールを愉しむシチュエーションとして催事に代表される非日常を置くことは決して否定しないけれども、日常とどう接続するのかという話もして良いのではないだろうか。
「お祭りだし、“せっかくだから”クラフトビール飲もうか」は構造的に「旅行に来たんだし、“せっかくだから”地酒を飲もうか」と似ている気がする。場が日常から遠ければ遠いほどそのシチュエーションに相応しい何かがあって、それは“せっかくだから”という物言いに象徴されるものではないかと思う。日常から遠いこと、それは裏を返せば「普段なら手を出さない」という意味なのだから。
ビール祭りというものが日常からどれほど近いのか、離れているのか。その人の意識によって意味合いは大きく異なると思いますが、「せっかくだから」に込められているのは他者性というか、「本来私には関わりのないことです、はい」というニュアンスがあるような気がしてならない。ここに決定的な遠さを感じるのはきっと私だけはないだろう。これを分断と呼ぶのは簡単だけれども、そう名付けたところで課題が解決されないので難しい。
かといって、ここで過剰に悲観的になる必要はないとも思う。「普段なら手を出さない」のは「認識はしているけれど選ばない」ということであるから、「完全に未知のもの」ではないのだ。大手ビール会社によって「クラフトビール」という言葉は良くも悪くも広まったのでしょう。となれば、何かしらのきっかけがあれば気持ちの上で上位に食い込んでくる可能性を秘めていると信じたい。
では、具体的に何をどうすれば良いか。アイディアはたくさん浮かぶけれど、私にはまだ絞りきれていない。どこから考えたら良いのやら。
どうやらその席に注文したビールが届いたようだ。
「お待たせしました〜、クラフトビールのMサイズお二つです〜」
あぁ……ここまで来たとも言えるけれど、先は長そうだ。
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2023年10月29日発表の「文脈とビール3」に収録したものを転載。