「美味しいビールを教えてください」、「一番好きなビールは何ですか?」について
先日タイトルのことを尋ねられたので以前書いた文章を公開したいと思います。こちらは「文脈とビール2」に収録されているものです。短い時間で読めると思いますのでちょっとした暇つぶしにでも読んで頂けたらと思います。
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「美味しいビールを教えてください」
こう言われることがあります。何度も何度も訊かれ、その都度途方に暮れる。この質問は非常に困るのだ。私はあなたではないので、あなたが美味しいと感じるものは分からない。同様に、あなたは私ではないので、私が美味しいと感じるものは分からない。ここで言う美味しいビールとは何を指すのだろうかと思案している間に妙な空気になってしまって、あたふたしてしまう。
この質問に対して躊躇なく「○○○です」と断言出来る人がいたら凄いと思う反面、断言することで厳密さや正確さよりも分かりやすさを優先するタイプの人なのだなぁと感じます。場合によってそれも悪くはないのだけれど、私の性格からするとそういうことは出来ない。どうしても相手の意図を考えてしまうし、その場における嘘のない最適解、上手な落とし所について思いを巡らせてしまう。
そこで一つ返し方を思いつきました。「なかなか難しい質問ですね。じゃ、一度一緒に飲みに行きましょう」と返すのが今のところ一番正しいのではないかと考えるようになったのです。即答せず、断言もせず、唯一無二の正解がないことを考えるにはまず互いの認識をすり合わせる必要があります。同じ時、同じ場所で同じものを飲み、それについて語らうことで共通する何か、相違する何かが見つかります。そして、その結果美味しいと双方が思えるポイントが見つかれば美味しいビールというものにちょっとだけ近づくと思うのです。ですから、一度一緒に飲みに行かねばなりません。
そこで行われる乾杯という行為は語らいを始める合図であり、それを起点に様々なやりとりが為されるとすると、乾杯した人たちはその瞬間にコミュニティを形成するのだろう。同じボトルやケグをシェアした人たちには「同じ釜の飯を食った仲」に近い感覚が多少なりとも生まれるような気がする。乾杯という儀式で始まる語らい、この場合社交と言い換えても良いけれども、そこで交わされる言葉の中にそのコミュニティ固有の美味しさに対する美意識が反映され、共通認識を作り出す。
もちろん品評会をしているわけではないのでどれが一番美味しかったかを決める必要はない。美味しいと思えるものがなかったとしても「我々が共有している、美味しいと思う基準」が捨象として強調されるので十分認識は共通していることになります。「今日はイマイチなものばかりだったけれど、たまにはこういうこともあるよね」とみんなで思えればそれで良い。むしろ「未知の美味しさがまだまだある」とか「次こそは美味しいものを」と思った方がもう一度集まる理由が出来て好都合でしょう。こういうやりとりの中で「美味しいビール」についての暫定的な解答を出せたとしても、唯一無二の万人に共通する結論は出ない。あくまでもこの場の、この瞬間の解答を出しただけなのだ。語らいにはゴールがなく、語らうことそれ自体が目的なので特に何かを生み出す営みとも限らない。そういう性質のものだから生産性が無いと言われればそれまでだけれども、人間それほど合理的な生き物でもないだろう。終わりなき語らいは無意味だからこそ楽しいような気がする。
「美味しいビールを教えてください」の次くらいに訊かれるのが「一番好きなビールは何ですか?」というものだ。これも面倒くさい。印象に残っているレアなものを挙げても相手が知らない可能性が極めて高く、そんなものを挙げても理解してもらえない。かといって、比較的手に入りやすい一般的なものを答えたとしても心配は残る。「なるほど、あれか。買って飲んでみよう」と私の感覚を追体験しようと思われても困ってしまうのだ。ビールそれ自体の状態や温度、グラスの形状等々の条件でその印象は大きく変わり、私の体験とは同じものにならない。私が良いと思った条件を再現することは実際には不可能なのであまり一般的すぎるのも問題だ。
色々と思案した結果、私は「ジラルダンのアウドグーズが好きです」と答えることにしようと今のところ考えています。このお酒はベルギーのランビックで、数あるランビックの中でも一番とらえどころのない味わいがすると思います。濃くもなく薄くもない、酸は弱くもないが強くもない。けれども、総体は間違いなくランビックで、他の銘柄には無いジラルダンらしさというものを挙げるとすると難しい。他所には無い特徴的な何かがあるというよりは「要素の多さとその絶妙なバランス感」こそがジラルダンらしさなのかもしれない。
このお酒が味覚、嗅覚において傑作であることは間違いないのだけれども、それ以上にこのお酒があると語らいがスムーズになり、飲んでいることを忘れていつしかグラスが空になっているというのがとても気に入っています。不味いお酒は飲み進まず、会話の最中一口含むごとに気になってしまう。そのせいで会話に集中出来ないのでよろしくない。美味しいお酒ならそんなことはないと思いきや、実はそうでもない。美味しいけれども個性的で主張の強いお酒はそれ自体がぐいぐい詰め寄ってくるので口に運ぶたびに疲れる。意識がお酒の解釈に持っていかれてしまいそうで、これまた社交の相棒としては相応しくない。
美味しくて満足感は高いのにその存在を主張することなく、ただ静かに佇んでいるようなお酒。そして、いつしか蒸発するようにそれは無くなっていて余韻だけがそこに漂っている。何とも儚く、美しい。私にとってジラルダンはそういうものだ。
・・・ちょっと仰々しく書いたけれども、実はもっと大事な理由がある。私が好きなのは当然なのだけれど、これを開けると妻が必ず喜ぶのだ。そして、機嫌よく話をしてくれる。それを「うんうん、そうだね」と頷きながら他愛もない話をするのが好きだ。これは何にも代えがたい。「一番好きなビールを教えてください」という質問については「ジラルダン」と答えるけれども、本当のところを言えば「妻と他愛もない話が自然と始まるジラルダンが好き」なんだろうと思う。家族という最小単位のコミュニティで共有される確実な価値観を一つ持てたこと、それがとても嬉しい。