安彦良和とテクネー、クラフトビールの議論に足りない気がするものについて
先日のことです。以前録画しておいたNHKの漫勉neo、安彦良和の回を昼休みに改めて観ていました。いやぁ、何度見ても素晴らしい。毎度この番組は良いのだけれど、この回はやはり白眉。漫画素人の私にはその凄さを言葉に出来ないので代わりにtogetterのまとめを置いておきます。どれほどの凄さなのかを感じ取って下さい。
安彦良和という稀代の名手の漫画が面白いことは読めば分かるし、すでに読破している方々には釈迦に説法というものだろう。絵柄もかっこいいし、ストーリーも良いのはもはや当然なのだろうけれど、この番組の素晴らしいところはそれとは全く違う視点を与えてくれることなのだと思う。
私がこの回を見終わった時、「テクネー」という言葉がふと浮かんできました。
通常、印刷された漫画を読む場合私たちは完成形を受け取っている。書き上がるまでに作者の内部に存在した躊躇いや迷いといった意識の痕跡は無い。印刷された漫画という静的に形を与えられた完成品を鑑賞することで読者に様々な感動が生まれるというのはごく一般的ことだと思います。しかし、この番組で示されているものは頭の中から指先を通して作品が生まれる動的な姿であり、そこに駆使される技術の数々だ。道具の選定、筋肉の使い方などなど、ギリシャ哲学で言うところのテクネーそのものではなかろうか。
以前、クラフトビールがアートであるならばという文章でアートを鑑賞する場や批評の必要性を綴ってみました。これに付け加えるとすると、ビール醸造における職人的技巧それ自体について語ることもまた必要ではないだろうかと思うわけです。よく「学術」というけれども、その際サイエンスが「学」であり、自然の諸法則を指します。それに対してアートは「術」とされ、事物の生成に関わるあらゆる技術を指します。ビールは自然と出来上がるものではなく、人間が人為的に、そして意図的に醸すのだからその実現にはテクネーが大いに介在するだろうというわけなのです。
原理的には麦汁に酵母を入れて発酵させればビールにはなるのだけれども、それはアート的ではないでしょう。クラフトビールがアートであるならば人の手が介在していて、その技術に注目が集まるのは自然なことだと思います。醸造家を醸造家たらしめるものの一つはテクネーに他ならない。道具、機械によってテクネーは身体から延長されて、それがもはや「手による技」に見えなくなったとしてもそれを私たちはテクノロジーと呼んで認識しているのだから現代においてもこの発想はあながち間違いでもないはずです。
ふと思うに、これまで私たちはビールにおけるテクネーの話をどれだけしてきただろうか。こういう視点で地ビールが登場した90年代半ばから今日までの流れを振り返ってみるのも悪くはないのではなかろうか。なぜならば、ビールにおける品質向上は気持ちや情熱で達成されるものではないからです。もちろん、技術の習得には気持ち、情熱が必須なのだけれども。
嫌な想像ですが、ビールの品質から離れた雰囲気だけのお気持ちポエムばかりが濫造されては不安定な足元がますます揺らいでいくのではないか。そんな心配もしたくなってしまう。「発酵後、ホップを一部手で投入する」とかどうでもいいことを喧伝するよりも、手で入れるべきと判断した理由こそが大事です。機械で入れた方が良いのならばそう判断する論理やメリット、そうすることで達成される美について語った方がよっぽど良い。「主発酵後にホップを入れることをドライホッピングと呼ぶ」ということだけではなくて、理想とする美味しさ、成し遂げるべき美から逆算して用いるべきと判断したその技法に辿り着くまでの思考過程、理想実現に必要な設備や原材料の選定に関する審美眼などについてであるからこそ、たとえばドライホッピングを支える土台について語ることが極めて重要なのではないかと思うに至ります。
こういう話、議論を積極的に行い、飲み手に「すごいなぁ」とか「おいしいなぁ」以上の、たとえば「美味しくて美しいものを作る職人の技術ってすごいな。職人の仕事ってかっこいいな」と思ってもらわねば未来の醸造家は現れないでしょう。醸造家になる前に必ず一人の飲み手なのだから、その仕事について現役の醸造家がたくさん語って欲しいと切に願います。たとえそれが飲み手に今それほど求められていないとしても作り手側が語ることは決して無駄ではないし、いつしかそれが実を結ぶ日も来ることだろう。短期的な結果も大事だけれども、将来に向けて語るべき事柄というものもきっとあるはずだと思うのです。