複数あることと集合には違いがある気がするという話
Tap Takeover(タップテイクオーバー)と呼ばれるイベントがあります。お店のタップ(ビールの注ぎ口)を一つのブランドで全部乗っ取る(テイクオーバー)ことを意味し、特定のブルワリーのビールをフィーチャーしたイベントを指します。10タップあれば10種類繋ぐのが本来的ではあると思いますが、最近一部であってもそう呼んでいる気がします。まぁ、語義としては間違いなのでしょうが、今日そこにはツッコミを入れないでおきます。タップテイクオーバーと言えばどこかのブルワリーを特集したイベントだと思えばとりあえず間違いないです。
タップテイクオーバーのイベントに以前は結構行きましたが、最近あまり足が向かなくなってしまいました。特定のブルワリーのビールがズラッと並んでいてそれはそれで壮観なのですが、ただそれだけに感じられてしまうのことが大分増えたからです。
単独のビールを味わうことを点だとすると、一度に複数飲むことで点が線になり、面になる。もしかしたらそれが空間になってブルワリーのイメージや志向する方向性が立体的に感じられるチャンスなのではないか。タップテイクオーバーには欠けてはならないものがあると個人的には思っています。
映画に例えれば分かりやすいかもしれない。たとえば、ちょっと前に流行した「カメラを止めるな」もあの順序で展開されるから面白いのだ。時間通りに進んでいれば予想を裏切るものも回収すべきフラグもない。ただのつまらないドタバタがしばらく続くだけだ。順序には意味が発生する。
音楽でもそうだろう。スピッツのロビンソンという名曲がある。それ単体でももちろん美しいけれども、ロビンソンが収録されている「ハチミツ」というアルバムを通して聴くとその印象はまた違ってくる。
是非一枚通して聴いて頂きたい。後半の、あじさい通りからのロビンソン、そしてYという秀逸な流れ。静逸とはこういうことを言うのではないだろうか。ロビンソンをCYCLE HIT 1991-2017というベスト盤で聴くのともまた違っていて、その余韻は確実に異なる。自分という受け手から見た場合、モノは単体でも鑑賞可能であるが、複数並べた時に人はその順序自体に意味を感じてしまうように出来ているのでしょう。そして、作品単体に込められた想いとは別に順番自体に表現者の意図も多分に含まれているに違いない。
このような例には枚挙に暇がないけれども、「ただ単に複数あること」と「意図的に配された集合」には大きな差が生まれると考えているのです。話をビールに戻すとタップテイクオーバーは出来れば後者であって欲しいと心の底では思っています。提供するビールの集合によって飲み手が感じるものとは別に、ブルワリーやお店側から提示されるコンセプトがあっても良いはずだ。「xxxxというブルワリーのものでタップを埋めました」以上の何かと言えば良いだろうか。うまく表現出来ないのだけれども、そういう集合によってでしか表現できないものもあるような気がする。
何をどう集合させたのかも大事。そしてそれを鑑賞する順序には意味が発生してしまうし、文脈によっても解釈は変わる。だからこそ、タップテイクオーバーをするのであれば配したものに通底する意図を提供側が持っていて欲しいと私は願っている。飲み手がただ単にたくさんの種類のお酒を消費したい可能性も無くはないし、それにお店が応えることも大事なのだけれど、意図を咀嚼できればエンゲージメントは高まると思うのだ。タップテイクオーバーという行為に単体では表現できない美的な体験があるのであれば、飲み手の内側に生じる感動は増幅してブルワリーとイベントとお店の全てに高い価値の共有が生まれると思うのです。
きっとそこに表現される機微はとても繊細なものだろう。ビールという言語で語られているのだから、ビール語通訳とでもいうべき存在が必要になる。インターネットの時代になって情報を得ることは随分簡単になったし、ECも発達したからモノを揃えることも昔に比べて難しくはない。そこから先の話をしようとすればまずは「場」と「人」、そしてそこから「精神」や「思想」に向かって進んでいくのではないか。大きな流れとしてそちらの方へと進むのは必然なのかもしれないと近頃つとに思う。
・・・夜中にビール飲みながら書いているから随分と筆が乱暴だと我ながら想う。大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。でも、一度にたくさん色々飲めること自体にあまり価値があるとは思えなくなりつつあるのは確かだ。いや、少なくとも種類や量よりも「意味の強度」を私個人は重視するようになったのだと思う。一度にたくさん色々飲んだ上で「感じて対話する」ことこそがクラフト的ではないだろうか。
酔ったついでに最後に少しだけ。
順番に意味が自然と発生してしまうのを嫌って、逆に無機質さを突き詰める方向で考えるのも一つのアプローチだと思う。有機的ではなくて、無味無臭でユニバーサルな何かを目指すという発想があっても良いだろう。かつてYMOはグルーヴを捨てたかったのだそうだ。下記の動画の11:16あたりからを見て頂きたい。坂本龍一氏の発言を受けて「シンセサイザーにはVelocity(ベロシティ)が無かったから、昔」と高橋幸宏氏が語っている。配置の間隔だけでなく音色ももちろんそうだが、等間隔に並んでいても粒が揃っていないとその僅かに存在する差に意味が生じてグルーヴが感じられてしまうのだろう。意図なんてなくても私たちは勝手に解釈してしまうように作られているのかもしれない。何も強制せず、ただそこにモノがあるだけで良いのだろうか。意味、そしてその強度はどこに発生するのか。酔いのせいか、分からなくなってきてしまった。