たぶん聞いていたけれど覚えてなかったんだ、誰も僕に語らなかったから

数日前、共同通信からこんなニュースが出ました。ちょっと驚くと共に、何とも言えない気持ちにもなるのです。

アサヒ、クラフトビール大幅縮小 採算合わず、小売り中止

本文にこうあります。

アサヒビールが、原材料や製造方法にこだわる「クラフトビール」の事業を大幅に縮小することが1日、分かった。中小規模の醸造所から始まったブームに乗って昨年2月に参入したが、コンビニやスーパーなど小売店向けを少なくとも年内いっぱい中止する。このまま撤退に向かう可能性もある。思ったほど売れず、採算が合わなかった。

撤退が決まったわけではなさそうですが一般小売は中止。続く部分に”グループ内のレストラン向けに生産は続けるが、小路氏は「大手メーカーが造った製品はクラフトビールとは言えないという消費者の声もある」と抜本的な見直しを示唆した。”とあるのでアサヒクラフトマンシップブルワリー(旧 隅田川ブルーイング)の自社直営ブルーパブ業態は継続するのでしょう。主力商品以外のスタイルのビールを広く紹介することには大きな意味があったと思いますが、一気に小粒になりますね。うーん・・・。

コンビニやスーパーで缶が手に入ることはシーンを劇的に大きくする可能性を秘めていたと思います。しかし、その実現は難しかったわけです。今回の話はとても大きな意味があると思います。「大手メーカーが造った製品はクラフトビールとは言えないという消費者の声もある」というだけではなくて、マスプロダクトやコモディティのやり方が通じなかったのではないだろうか。アサヒだったから、という話ではなくてもっと深い気がします。

大音量で繰り返されるBGMはなんとなく雰囲気を作るのだろうけれど、それを誰も聴いてはいなかったし、覚えてもくれないのだろう。誰も僕に語らなかったから。そんなことをふと思います。

さて、そろそろ「流通と品質」の話をしようというシリーズでも少し触れましたが、コモディティとしてのビールはとにかく津々浦々に同質のものが安価に普及していかねばなりません。「同質」で「例外なく津々浦々」なので個別の説明も不要。どーんとテレビCMや雑誌の広告でアピールすれば届く。でもきっとクラフトビールはそうではない。大量生産・大量消費の文化や思想、効率を最重要視するスタンスとは根本的に異なる「ストーリー」があるように感じられます。技術が進めば進むほど、逆説的に絶対にその技術革新では代替できない部分が残ることを意識させられる。体温のある語りがますます意味を持つのだろうと思うのです。

クラフトビールをクラフトビールたらしめているものの一つはきっと「語ること」ではないかと思っています。美味しいことは最早当たり前で、それ以上の何かが液体の向こう側にあるような気がしてならないのです。そこをコピペの広告で手を抜いちゃいけないのでしょう。個別に語るのは面倒で疲れるし、人も時間もお金も場所も必要。一気に広めるなんて不可能だけれど、語る手間を惜しんだらきっとダメなんだと思います。

たぶん聞いていたけれど覚えてなかったんだよね、誰も僕に語らなかったから。