瓶の中の酒と、瓶の外の話

栃木の酒蔵・せんきんが手がけるスパークリング日本酒「オーガニック・ナチュールX sparkling」で、瓶内での発酵が継続することによってガス圧が想定以上に上昇し、瓶が破裂する恐れがあることが判明し、リコールとなりました。

消費者庁 リコール情報サイト せんきん「清酒:仙禽 オーガニック・ナチュールX sparkling」 – 回収

記事執筆時点で、実際の怪我の報告はまだ出ていません。しかし、この蔵にとってこれは初めての事故ではありません。昨年、同じくUAコレクションの「UAくわがた」でも同様の破裂リスクが判明し、蔵は一度、耐圧瓶へと切り替えて再販した経緯があります。しかし、今回の商品では通常瓶に戻していたそうです。

この事故を受けて、X(旧Twitter)を中心に日本酒業界の内外から様々な意見が交わされています。ある論者は海外では液体が少し吹きこぼれるだけでも訴訟リスクになる例を引き、日本の作り手はもっと危機感を持つべきだと述べています。また別の論者は酒税法上のアルコール表示の定義、アルコール度数がわずかに上がった際に発生する炭酸ガスの量、瓶の温度上昇に伴う内圧の変化、そしてPL法(製造物責任法)上の製造者責任といった、専門知識を踏まえた上での議論を求めています。蔵元の経営が総じて厳しい中でコストを抑えるために通常瓶を使いたいという事情や瓶内二次発酵という製法そのものが圧力の予測しづらい技術であることに理解を示すものもありました。今回の件を機に「お上」による一律規制が生まれ、結果として瓶内二次発酵の泡ものを作る蔵が減っていく未来まで見ている意見もあります。

これらはいずれも重要な指摘です。本稿はこの事故そのものの技術的・法的な当否を判定しようとするものではありません。瓶の強度基準がどうあるべきか、製造者責任がどこまで及ぶかは専門家による検証に委ねるべき話であって、私のような門外漢が生半可な知識で口を挟むべきではないと思います。むしろこの事故を一つのきっかけとして、日本酒に限らず、私たちが「品質」や「本物らしさ」を掲げる商品全般とどう付き合っているか、その情報の流れ方について考えてみたいと思います。

瓶の中で発酵が続き、圧力が上がって割れるという危険は、おそらく昔から存在していました。どぶろくや自家醸造の酒、活性にごり酒などの瓶の中で酵母が生きている酒には古くから同種のリスクが伴っていたはずです。それが今日ほど大きな社会問題として語られてこなかったのは、危険そのものが少なかったからというより、その酒がどのような性質を持ち、どう扱うべきかという情報が酒そのものと切り離されずに届いていたからではないでしょうか。造り手と売り手、売り手と飲み手が物理的にも社会的にも近い関係の中でやり取りしていた時代には「これはまだ生きているから、早めに冷やして飲んでほしい」という一言が酒と一緒に手渡されていたと想像します。

もちろん、現代の酒にも注意書きはあります。今回の商品にも発売当初から「出荷月から3ヶ月以内、購入から2週間以内にお飲みください」という文言が瓶に記載されていました。情報が酒と一緒に流通しなくなったわけではありません。ただ、それは対面で手渡される説明から印字された注意書きへと姿を変えています。その入れ替わりの中で何かが失われたのだと思います。なぜ2週間なのか、冷蔵庫の中でも本当に危険なのか、体感としてどれくらい急激に進むものなのか。そういう文脈を伴わない注意書きは読み飛ばされ、忘れられ、実質的に機能しなくなりやすいものです。文字は酒と一緒に瓶に貼りついていても、それを読んだ人が実感として理解するかどうかはまた別の話です。

関係性の中でやり取りされる酒であれば、たとえ事故が起きても当事者の間で事情を共有しながら処理できたでしょう。造り手の顔が見え、売り手の説明を聞いた上で購入した飲み手であれば、多少のトラブルも「そういうものだ」という文脈の中で受け止められます。しかし、現在は違います。酒は広域に流通し、造り手や売り手と直接の関係を持たず、不特定多数の飲み手の元に届きます。ひとたび事故が起きれば、その情報はSNSを通じて当事者ではない無数の観測者にまで一気に伝播し、個別の事故が業界全体の信頼問題へと燃え広がるというのは想像に難くありません。今回、日本酒業界の内外を巻き込む規模の議論に発展しているのはまさにこの構造のためだと思われます。事故そのものの発生確率が昔より上がったというより、事故が起きた後の受け止められ方とその影響の甚大さが根本的に変わってしまったのです。

これは事故を軽く見てよいという話では全くありません。むしろ逆で、一件の事故が持つ社会的な重みそのものが増しているのですから、作り手も売り手もその重みに見合った態度で臨む必要があります。ただ、その態度がどこから生まれるべきかを考える時、規制が厳しくなったから仕方なく対応するのと、関係の中にいる誰かを傷つけたくないから対応するのとでは、同じ安全対策でも質は大分違うものになるはずです。

不特定多数への宣伝と販路の拡大という資本主義的な膨張はしばしば安全の保証を前提として要求します。しかし、実際の歴史を見ると話はそう単純ではありません。企業や商品によっては拡大に先立って安全基準を整えた例もあれば、逆に販路の拡大が先行し、事故や消費者運動を経て事後的に規制や表示義務が整備されていった例もあります。どちらが先かは鶏と卵の関係にあり、一概には言えません。但し、いずれの順序を辿るにせよ、一つだけ確かなことがあると思います。今回のような事故によって事後的な規制圧力が形成されていく一場面だということです。この件を機に「瓶内二次発酵は必ず耐圧瓶にせよ」といった、一律の基準が外から当てはめられる可能性は十分にあります。それは業界の外側から強制される安全であり、内側で自発的に育てられてきた安全とは性質が異なります。

外側から一律に強制される安全は往々にして個々の事情を丁寧に掬い上げてはくれません。耐圧瓶へのコスト増を吸収できる大きな蔵と、ぎりぎりの経営で瓶内二次発酵の発泡性清酒を続けてきた小さな蔵とでは同じ規制でも受ける打撃は全然違います。結果として、規制は業界の多様性そのものを縮小させかねません。だからこそ、規制という形を取る前に業界の内側から事故を防ぐための実践を積み上げておく意味は大きいと考えます。

ここで一つ注意しておきたいのは過度に一般化しすぎないことです。今回のような希少性の高い日本酒はコンビニやスーパーの棚に無差別に並ぶ商品ではありません。特約店制度を通じて、実店舗であれオンラインであれ、専門の酒販店を介して届けられるのが通例です。つまり、造り手と飲み手の間には本来関係性を保持するための制度的な器が今も現に存在しています。それにもかかわらず事故が起き、これだけの騒動になりました。

これは日本酒に限った話ではありません。たとえばクラフトビールの世界でも同じ構造が見られます。以前craftdrinks.jpで取り上げた、The Veil Brewingのフルーツを大量に使ったゴーゼの記事では、缶に「このビールには大量のフルーツが使われており、常に冷たい状態を保つことが不可欠です」という趣旨の注意書きが記されていることを紹介しました。温度が上がれば腐敗が進むという物理的な性質を持つビールです。この業界で本当に分かる人とされているのは、味の評価やシーン内部のトレンドを語れる人だけではありません。同時に、こうしたビールをどう保管し、どう扱うべきかという実務的な知識を持っている人でもあります。専門性の高い分野における「分かっている」という状態には審美的な評価軸だけでなく、扱い方の知識が本来セットになっています。しかもクラフトビールの場合、この知識は必ずしも小売店だけが担っているわけではなく、SNSやビール専門評価サイト、ビール祭りやテイスティングイベントといった愛好者同士のコミュニティを通じても伝えられています。特約店やクラフトビールの専門店という制度、そしてそれを取り巻く愛好者コミュニティはこの両方を伝えるためにこそ存在しているはずです。それでも事故が起きるということは、問題は関係性が失われたことではなく、関係性は残っているのにその中身である実践が形式的な手続きへと空洞化しているということではないでしょうか。

もちろん、今回の事故における第一の責任は蔵元にあります。一度目の事故を経験して耐圧瓶での再販という選択を経たにもかかわらず、今回の商品では通常瓶に戻していました。この判断そのものは個別の経営判断・品質管理上の問題として、明確に指摘されるべきです。ただ、そこで思考を止めてしまうと見落とすものがあるでしょう。一度目の事故の後に蔵元とそれを扱う特約店、卸との間でこのリスクについて腹を割った擦り合わせがどこまで行われていたでしょうか。もし生販三層のそれぞれが「自分たちは流通させるのが仕事で、事故の責任は造り手にある」という分業意識に立っていたのだとすれば、それは全体としての他責思考に他なりません。もちろんこれは推測に過ぎず、実際にどのような議論があったのかを外部から確かめるすべはありません。しかし、もしその推測が当たっているのならば、今回の事故は一つの蔵の技術的な失敗という物語だけでは説明のつかない、業界構造の問題として捉え直す必要があります。

生販三層という制度はそもそも酒を一手に造り、卸し、売る力を一社に集中させないための仕組みでもあります。役割が分かれているからこそ、それぞれの持ち場での専門性が育つという利点は確かにあるでしょう。しかし、役割の分担がそのまま責任の分断にすり替わってしまえば話は別です。「自分の持ち場さえこなしていれば良い」という発想は効率という観点からは合理的に見えても、酒が最終的に誰の手に渡り、どう扱われるかという一連の流れ全体に対する当事者意識を静かに削っていく気がしてなりません。

生産・卸・小売という三層の構造は酒税法上の免許制度としても実際に存在しています。しかし、その制度は単に酒を右から左へ、効率よく動かすためだけに設計されたのではないと私は信じています。造り手の背景、その酒が持つ性質、扱い方、そして万が一のリスクまでも、飲み手に語り継いでいく「語り部」としての機能が本来はセットで期待されていたのではないでしょうか。外側からの規制が整うのを待ってから慌てて安全を後追いするのではなく、生産から小売までのそれぞれが自分たちの仕事を単なる作業ではなく語りの実践として日々の中に取り込んでいくこと。それは購入時に一言扱い方を説明することかもしれませんし、パッケージにQRコードを添えて、なぜその注意が必要なのかを丁寧に伝える工夫かもしれませんし、卸や特約店が定期的に扱っている商品のリスクについて蔵元と情報を交換する場を持つことかもしれません。規模、業種が違えばその対応は異なり、一概には言えないけれども、こうしたことを一つでも実践に移せるかどうかで、次に同じような事故が起きたときの受け止められ方は大きく変わるはずです。

割れたのは瓶だけだったのか。そんなことを考えても良い気がするのでした。

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