90年代末のRelaxという雑誌はすごかった
今20代の方は全く知らないと思うのだけれど、昔「Relax(リラックス)」というとても素敵な雑誌があった。今思えば、私のひねくれた性格を形成するにあたってかなり影響を与えたのではないだろうか。
当時中学3年生か高校1年生だったと思う。もう20年以上前の話だ。図書館にあったRelaxをたまたま手に取ったのがきっかけで初めてリアルなサブカルチャーというもののことを知ったような気がする。それまでホビージャパンとかアニメージュばかり読んでいたのに、一気にそっち側に持っていかれてしまった。グルーヴィジョンズのチャッピーを知ったのも確かこの雑誌だ。あぁ、そう言えば、しりあがり寿と明和電機の連載も欠かさず読んでいたな。ピストバイクにメッセンジャーバッグというのがカッコいいなぁと思ったり、G Shockのイルクジモデル欲しいぞ!とか思ったり。懐かしい。
残念ながらすでに廃刊しているですが、気になる方はAmazonでバックナンバーが買えたりするのでチェックしてみてください。
今はインターネットで何でも検索出来る便利な世の中だけれども、入力に対して返ってくるアウトプットは因果関係が割とはっきりしていて「遊びの部分」が全然ない。また、検索エンジン側でのフィルタリングもあると言われていて、いわゆるフィルターバブルという現象が起こっているのだそうだ。知らないうちに好きなもの、見たいものしか見ないようになってきているのかもしれない。
その点、紙の雑誌には素晴らしいところがある。興味が無くて情報を進んで取りに行かなかったトピックを勝手に見せてくれることだ。一見無関係に見えるジャンルのトピックであっても、たとえばRelaxというプラットフォームに乗ると「Relax的審美眼にかなった空間要素のひとつ」として捉えて繋がりを見い出せたりする。そして、それらに通底する何かに気がつくと興味が湧いてどんどん吸収するようになり、その結果視点がワイドになって文脈やストーリーを感じたりするわけなのだ。Relaxはオシャレで絶妙にひねくれていて、エキサイティングだった。そういうチョイスのセンスに唸るわけなのです。Relaxは20世紀末カルチャーの一部を体現していたんじゃないだろうか。そんな気がしてならない。
歳を重ねて思うに、「興味が無くて情報を進んで取りに行かなかったトピック」というのに自然と気づくのはとても大変だ。これまで取り組んでこなかったことにチャレンジするのには何かきっかけが必要です。それは友人の勧めかもしれないし、憧れの人の真似かもしれない。何にせよ、道なき道を切り開きながら、手探りで探索する旅がそこから始まる。それは往々にして失敗とセットになっていて遅々として進まないのだけれども、その失敗がなかったら成功が定義できないような気もする。転ばないようにフルアテンドのお膳立てをされてしまうと本質には届かない。失敗を通じて内側から湧き出す理由みたいなものがきっと必要なのだろう。
世の中にはビール評価サイトというものがあって、仕事柄そこでの評価をチェックしていたりするのだけれども、高スコアだからといって自分が美味しいと感じるとは限らない。評判を聞いてチャンレンジしたものの、死ぬほど失敗もしてきました。逆にスコアは高くなくても思いがけない出会いに感動することもしばしばあるのです。世間の評価を集約した平均値は正解なのだろうか、と考えることも少なくない。私は世間ではないし、世間もまた私ではない。そういう当たり前のことをもう一度見直してみるのも悪くない気がする。
今の世の中はすぐに答えを欲しがるようになってはいないだろうか。問いに対してまっすぐ最短で解が得られないとストレスを感じるようになってはいないだろうか。因果関係がはっきりしていて答え合わせが単純な方が分かりやすいし、その方が実際ウケるのだろうけれど、試行錯誤の末にたどり着いた自分なりの解ほどの強度は持たないだろう。お金でなくとも、気合や時間をかけてこそ構築される自身の価値体系というものがあって、それはとても貴いものだと感じる。
90年代末のRelaxという雑誌はすごかった。