【雑記】クラフトビールがアートであるならば

May 8, 2018

クラフトビールはアートである。

そんな言葉を結構聞くようになりました。言わんとしていることは分からなくもないのですが、若干の違和感を覚えるのです。

クラフトビールがアート作品であるならば、ブルワーはアーティスト。この関係性については良いでしょう。しかし、芸術作品はそれが存在するだけで価値があるのかというとそうではなくて、鑑賞者、この場合飲み手という存在があってこそ成立します。アーティストの思想や理想などを託された液体が酒屋さんやパブなどを通じて私たち飲み手のもとに届き、それを口にすることで鑑賞するわけです。アートはそれ自体だけでは成立しない。

昔と違って多くの方がスマートフォンを保有しSNSを利用していてブログなどwebサービスも充実している昨今ですから、鑑賞者からの感想がアーティスト自身にも以前よりも簡単に届くようになっています。英語が読める方であればratebeerやbeeradovocate、untappdなども利用するでしょう。世界中の人たちとクラフトビールを通じてコミュニケーションを取り、様々な情報がやりとりされ、その結果シーンは良くも悪くも活性化しています。評判の良いブルワリー、レーティングの高いビール、人気のパブなどなど。

アート作品であることにはそれを消費する「場」が必要になります。

お店で飲む場合、そこは美術館のような場所となるでしょう。タップリストを管理している人は正にキュレーターであり、そのタップリストによってキュレーターの美意識なども間接的に表現されます。また、ふらっと訪れた方に対してのアテンド、つまりオススメの仕方にもそれが薄っすらと見えてきたりするかもしれません。

ところで、クラフトビールがアートであるならば「批評」があっても良いと考えています。広告宣伝費などお金が紐付いた媒体や記事ではなく、完全に独立した論壇のようなものと言えば良いでしょうか。歴史的、科学的アプローチもあって良いでしょうし、現在進行形のシーンの記述も後々重要なものになるかもしれません。ビール自体にフォーカスしても良いし、人とビールの関わりについてでも良いでしょう。少なくとも結論ありきの提灯記事やお金に引きづられてしまった文章がメディア上に氾濫するようでは健全な発展は望めないように思うのです。

ちょっとまとめておきましょう。
クラフトビールがアートであるならば、ブルワーはアーティストでありパブはキュレーター。ブルワーの表現した美を感じ取り、高品質な状態で配置することにキュレーターの美学が垣間見えるわけです。作品とそれを鑑賞する場を取り仕切る係と言い換えても良いですね。鑑賞者はその美と美の哲学に文字通り酔いしれるのです。但し、美は一様ではなく鑑賞者一人ひとりの受け取り方が違います。だからこそ、批判ではなく批評がそこにあって欲しいとCRAFT DRINKSは考えます。たとえ技術的ミスが無かったとしても「なんとなく作ってみました」というようなコンテクストの見えないビールほどつまらないものは無いように思うのです。今の日本のクラフトビールシーンに必要なのはコンテクストと批評ではないかと。

他所の媒体で昔こんなことを書きました。 現代クラフトビールは醸造技術の発展によりどうしようも無くマズいものは少なくなってきています。だからこそ、その液体が体現する世界観こそが強く突き刺さると思うのです。その意味でCRAFT DRINKSは千葉県佐倉のロコビアさんを心から応援しています。

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