【雑記】駅弁フェアと旅情、そして不便益の話

百貨店のドル箱企画と言えば、地方の物産展。駅弁フェアもその一つで毎回相当な人出らしい。基本的に人混みが嫌いだから行かないけれど、行かない理由はそれだけではない。

駅弁って象徴的だと思うんですよ。物体として、食品として美味しいのは大事なのですが、地元のお店が地元の駅でだけ販売していて、そこに行ったいうことが味覚、嗅覚と一緒に経験される。モノ体験が物理的な場所に紐付き、コト体験の重要なパーツとなっていると考えて良いだろう。車窓の風景や、駅の匂い、風や雨だれの音すらも感動に作用する。旅情ってヤツだ。あれは何にも代えがたい。

さて、百貨店の催事である駅弁フェアはどうだろう。地元から運んで来ているなら鮮度も違う可能性もあるが、催事会場で調理して同じものを出しているかもしれない。何にせよ、モノ体験は出来る。でも、コト体験としては最高ではないよなぁと思ってしまうのです。

私は食いしん坊なのでモノ体験だけでも充分食欲求を満足させることが出来るけれど、コト体験ほどのインパクトは残らないような気がしてならない。「いつもと違う美味しいの食べたな」と思うだけで終わってしまう。資本主義的な文脈からするとモノ体験で充分価値の交換が行われていて特別問題があるわけではないのですが、すっきりしない何かがあるのです。瞬間的というか刹那的というか、そうではない何かについてふと考えてしまう。

もしかしたら「不便益」というのも一つキーワードなのかもしれない、と最近思い始めました。提唱者である京都大学・川上先生の言葉を引用しておきましょう。

「不便益」とは、不便の益(benefit of inconvenience)のことだ。便利(convenience)とは、手間がかからず、頭を使わなくても良いことだと仮定すると、不便でかえって良かったことや逆に不便でないと駄目なことがいろいろと見えてくる。不便益とは、やみくもに自動化や効率化を目指すのとはまるで別の方向にある考え方だと言ってもいいだろう。

結果だけではなくて、そこに至るまでの過程自体にも実は価値がある。近道よりも回り道の方が良いこともあるのだ。仮に完全栄養食品が発明されてもお母さんの手料理には栄養の補給以外のところで大きな意味が必ず残るだろう。ネットで拾えるスコアやランキングの情報に従うのは簡単だけれども、その時無意識に捨ててしまっているものがあったりするのではないだろうか。主体的に、そして積極的に価値を判断することはなかなか疲れるもので外部に任せてしまえばラクだけれども、そこで充足されるものは儚く虚ろだ。お膳立てされたものよりも自分で獲得したものの方がきっと価値がある。

駅弁だけでなくお酒もきっと不便益の文脈に置いた方が良い場合もあるような気がしてならない。偶然の出会いというか、セレンディピティというか。世間の価値基準に従うのではなくて、真に自分自身にとって素晴らしい何かに出会って感動できる心持ちでいたいものだ。

実はratebeerも殆ど見なくなった。他人の評価よりも自分自身の感じたものの方が大事だし、知らない誰かが高く評価したものを追い掛けて何が何でも飲んでみたいと思わなくなってきたのだ。何のために飲んでいるのか分からなくなってしまいそうで怖くなるから、ふらっと寄った仲間のお店でその時たまたま出逢ったものとその出逢ったという事実を大事にするようにだんだんとシフトしてきた。達観なのか諦観なのか自分でもよく分からないけれど、出会うべきものにはいつか必ず出会うのだからそれで良いんじゃないかと思う。